「庶民の日本を築く為の講座」其の四
薩長の教養のない成り上がり下級武士が作った「終身天皇」
未知の明日の為『温故知新』を活かそう
! ! 今こそ國の内外で識者により提言されている『江戸文化』という、西洋基準のグローバルに加わった明治維新より前の日本を基準にして、お互いの意識を高め、認識を深めたいと思いますが、皆さん、いかがでしょうか?
生まれ育った年代も環境も違い、勿論考えも違うので、折角の出会いのほとんどが、すれ違いに終わっているのが残念です。しかし日本人誰にとっても、『吾が祖國』はこの細長い國が一つだけで、子々孫々に続くのです。少しでもよりよい國にして残したいものです。
過去の責任を追及していくだけでなく、否追及の中にも「愛」を基調として、試行錯誤しながらベストでなくても精一杯やってきた真実は、検証把握して前向きに生かしたいものです。触れたくない部分や、都合の悪い部分、恥ずかしい部分も出し易くしなければなりません。また勇気も必要です。本当に國を思っている人たちが集って、考えて、行動してこそ、難関を切り抜ける智恵がわき、祖先の叡智と融合するのではないでしょうか。
先日の新聞広告で「偽りの明治維新(著・星亮一)大和書房」を知り、早速読みました。同じ東北郡山生まれの私には、地方に今でも恨み・蔑みの念が続いていることに驚いたものです。「裏切り野郎」と・・・。現在でも会津の人は三春の人たちを許していないのです(三春とは同じ福島県で、滝桜で有名で、昔は馬の産地でもあったところです)。戊辰戦争の時に官軍に協力したからです。当時露骨になった「勝てば官軍」(孝明天皇から宸翰まで賜った会津が賊軍となり、最も嫌われていた長州が官軍となった)の模様を目の当たりにして、日本人の思想は「力」に変わったと思います。それは当時欧米白人諸国の帝國主義と伍していくためには、挙国一致体制が必要不可欠であったことも加味しなければなりません。しかし「官軍」となった側に「仁」が欠けていたのも事実でした。薩摩と長州の教養のない成り上がり下司武士が、必要以上に犠牲を多くしました(例・河井継之助)。
明治維新(下記参照)に名を借りた今に至る國体破壊は直さねばなりません。古来天皇家には「譲國の儀」がありました。終身天皇は伝統でもなんでもなく、明治維新の下級成り上がり武士達が、情念と保身で作り上げたものです。大東亜戦争で戦局不利となって重臣から「終戦」を打診されても(昭和20年初め)、昭和天皇が「もう一度戦果を挙げてから」といって渋ったのも、長州の色を濃く引き継いだ陸軍がより強硬に徹底抗戦を叫んだのも、都合の悪い書類は全て焼却処分したのも、深く考えれば、明治維新に遡る「秘密」を連合国側に知られたくなかったからではないでしょうか? そして明治維新という血塗られた内戦で、賊軍とされた会津や奥羽列藩同盟の諸藩に行った同胞とは思えぬ手厳しい処分を、今度は負けたら自分達が受けるという恐怖感があのような無謀な抗戦を長引かせたのではないでしょうか?
(歴史のいたずらというか、神様は公平というか、多くの部隊が玉砕して惨憺たる有様であったあの大東亜戦争において、会津の第65連隊は、徐州作戦を始めとする中国各地の作戦で、それなりの犠牲は勿論あったが、中国大陸の一番奥地まで行きながら、部隊の体裁を保ったまま終戦を迎えました。)
終身天皇という不条理は今も続いています。日本の真似をした他国の終身大統領は、韓国もフィリピンも終わりを告げ、残るは日本と北朝鮮だけです。つまりまともでない國と同じ制度を日本は続けているわけです。皇室は「守り」でも「威厳」でもなく「祈り」の筈です。厳しい御反応があれば、私の尊皇を披瀝します。
平成二十年四月二十九日 肥やしの老狼
蛇足ですが、維新の「維」とは太綱・つなぐの意、繊維の「維」です。國体は、織り上げ、縒り上げ、繊細に守られてきました。古くなれば汚れも埃もつきますので、時には払い清めます。しかしあくまで「払い」「清め」です。根幹に触れることは、「維新」とは言わない。つまり孝明天皇の死に始まった幕末明治の状況は「維新」ではなかった。そして後には、正常ではなかった大正天皇の長寿を願った証拠はない。