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俺と護國團
俺が団長をつとめていた護國團とは、暗殺集団として恐れられていた最強の右翼団体のことである。”最強”とはいっても、インターネットを日々手足のように使っているお若い方々の多くにはピンことと思うので、もう少し捕足させて欲しい。
護國團は、井上日召を団長、佐郷屋嘉昭を副団長として、昭和29年4月29日に旗揚げされた。井上日召とは、御存知の方も多いと思うが、一人一殺を唱えて活動していた「血盟団」の首領である。
他にも、血盟団の小沼正、五・一五事件に連座した元海軍中尉である三上卓、佐郷屋嘉昭と組んで浜口首相暗殺に関与した松木良勝、東條英機暗殺を画策した小島玄之、反共抜刀隊計画に加わった辻宣夫、等々当時の国民がどの名を聞いてもたちまち震え上げるような猛者達によって結成された。
俺が入団したのは、昭和30年6月だったから、結成されてから1年以上経過している。はじめは青年隊に入隊して張り切っていたが、そのうち上層部との間に軋轢が生じるようになった。原因は、いうなれば内部の腐敗だ。俺は青年隊隊長として、綱紀粛正のためにガッツンガッツンやり合った。けれども、この世界、「上が黒と言ったら白でも黒と言う」のが常だから、俺のような人間は正直言って周りからあまりいい顔はされない。大幹部が蒼々たる顔ぶれだったせいもある。
それでも、俺の愛国心と侠気に意気を感じて助けてくれた右翼やヤクザの親分衆もいらっしゃった。俺が府中の刑務所に10年務めなければいけなくなった時に、「石井さん、あんたの留守は俺達が守るから何も心配はいらない」こう言って、松葉会、稲川会をはじめとする仁侠団体が、俺の留守中の團の守を買って出てくれた。
出所した時は、山口組の田岡先生の意を受けた山本若頭他の方々、稲川聖城先生の意を受けた石井理事長他の方々の出迎えの車が外に並び、俺が出てくるのを今や遅しと待っていてくれた。
そんなことは露知らなかった俺は、刑務所の中で”ミーティング”と称して4時間も塀の中に居座っていた。所内で朝鮮人服役囚が殺された。頭に黒い袋をかけてボコボコにするいつものやり口で、看守にやられたのだ。めでたく放免となった俺は、この時とばかりに、その事を含めた関係の横暴の数々をネチネチと詰問していた。看守も俺達も朝鮮人も同じ人間だろう? 今更、「盗人にも三分の利あり」とうそぶくわけじゃねえし、服役囚にも人権を!などと眠たいことをほざくつもりもないが、それとこれとは別だろう、と思ったわけだ。
ムショに入りたての頃と出る頃は、飯が喉を通らないものだという。前者はムショへの不安で、後者はシャバへの期待からだ。俺も御多分に漏れず、出所する前の日は飯が喉を通らなかった。自分でも「これじゃあいかん!」と思い、ふんどしの緒を締める心持ちで出所の日は悠然としていたのだ。一方、まんじりともせずお待ちになっていた方々には、出所の際に悶着が起こったのかもしれないと余計な心配をさせてしまい、全く申し訳なかった。
俺はしばしば牙の鉾をヤクザに向け、ヤクザは屑の乞食野郎だと声を大にする。「ヤクザは右翼から直ちに手を引け!!」これが俺の常論だ。しかし、俺は故田岡一雄組長を男として尊敬している。稲川聖城会長に至っては、その面影が俺の母とオーバーラップし、目頭が熱くなってしまう程の想いすら禁じ得ない。
それは、男の重みと絶対値を無言のうちに感じさせる、”男を惚れさせる”胆力をずっしりと備えた方々だからだ。そこに”ヤクザ”という枠組みは、既に超越している。俺のヤクザへの思い入れは一言では言いきれない。それは後の機会にもっと詳しく話させて欲しい。
話がずれて申し訳ない。とにかく、俺は青年隊長の時分から、團員達に徹底的に言い聞かせてきた。
「庶民の味方になれ。庶民を決して軽んじてはならない」
何故ならこの国は庶民の国だ。我々の国だからだ。その甲斐あってか、世間からは蛇蝎のように嫌われているはずの我が護國團は、地域社会からはこちらが恐縮してしまうほど親近感を持って接して頂いている。こんなことは自慢にならないが、事務所に手入れがあった時には、近所のオバちゃんオジちゃん達がチャカ(拳銃)や長ドス(日本刀)を隠してくれたし、酒屋や魚屋、居酒屋は今でも代金を受け取ろうとはしない。それは、知られざる俺と護國團の一面でもあるのだ。
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